大観園の黄昏

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『fate zero』コミカライズ版 原作:虚淵玄 漫画:真じろう 感想 /キャラクターの対比について

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

fate/zeroのコミカライズ版読み終わりました。

原作は虚淵玄さん、漫画執筆は真じろうさん。真じろうさんといえばfgoでは、エルドラドのバーサーカーや弁慶などを描いてらっしゃいますね。

エルドラドのバーサーカーが真じろうさんのデザインなのは、虚淵さんの寄稿を読んで初めて気がつきました。申し訳ない…。
顔の造形や、繊細かつ存在を感じさせる筋肉の描き方は確かにそうだわ。

さて、zeroのコミカライズについて。

感想としては、良かったです。
画面の迫力があって面白かった!

zeroはアニメは視聴済みですが、原作は読んでおりません。もともとは同人誌だったそうですが、今は星海社から刊行された書籍があるそうで。なので、原作を揃えてしっかり読みたいと画策中…。

にしてもzeroは陰惨なシーンが多いですね…。アニメもエグかったのを記憶しています。漫画版はそのアニメ以上にエグい数々の場面を描ききっています。
例えば幼い桜ちゃんが、教育を受けている場面とか。
青髭おじさんと龍之介の子供を対象にした猟奇快楽殺人とか。

地上波で放送できないっすね。悪趣味です。悪趣味なんだけれども、物語上描かざるをえない部分。人間の下劣で残酷な場面を目にするからこそ、切嗣の悲愴な理想への理解に近づけます。

目を背けたくなるようなシーンの数々を、よく描ききったなと。

文句をつけるとしたら、たまーにデッサン狂っているところや、イケメンを描くのが苦手なのかな、ってぐらいです。パーツパーツは上手いのだけどなぁ。
ただ、デッサンの崩れは、ダイナミックな動きを描くとき、恐怖を描くとき、均整な絵よりおぞましさや躍動感が生まれることがあります。
進撃の巨人の初期とかも、あの崩れた作画が、読者の恐怖を煽ってたし。
真じろうさんがそこを狙っているかどうかは分かりませんが。

バトルシーンで大ゴマ使う所は、きっちり使っててgood。特にキャスター討伐のために、セイバーが闘う場面とか。めっちゃかっこよかったです。

ストーリーに関しては、ほんとに上手いなと。虚淵さんの脚本で、fgo第二部第三章についてあれこれ言ってしまいましたが、zeroについては、不幸コンボというべき負の連鎖が綺麗すぎる。

切嗣の過去から現在までは本当に上手く出来てる。ちょっと振り返ってみたいと思います。というか切嗣推しだから贔屓するぞ。

魔術の家に生まれ、南国の島で育った切嗣。最初はただ、父親を尊敬し、正義の味方に憧れて、女の子に恋をする普通の少年だった。
シャーレイに自分を殺すよう、ナイフを渡される場面、彼の初恋の相手だからこそ、殺す決断ができない。殺す決断が出来なかったからこそ、島中に被害が広まる事態に繋がってしまった。
切嗣は、そのことを理解し、正義の味方に憧れるからこそ、時には非情な決断を下さなければならないことを知った。だからこそ、元凶である父親に対して容易く引き金を引いてしまう。
けれども父親を殺したことで、それを正当化するための生き方を選択せざるを得なくなる。人間の命を自分の尺度で天秤にかける生き方。そしてあらゆる場所で平和の実現の名目のもと、戦い、殺し続けます。自分が手をかけてきた多くの命は切嗣の重荷となっていき、途中でやめるという選択ができなくなる。どうにもならないことを悟りながら、最後に彼が縋らざるを得なかったのが聖杯だった。

…という流れが綺麗に出来てるなぁと。正直今まで触れてきた漫画やらアニメやらゲームやらのキャラクターの過去編で、なぜ今に至るのか一番も言っていいくらい納得のいく内容です。いや、本当に。こうなったからこうなってこうなったんや!ってのが分かりやすい。あとは切嗣が自ら修羅の道に身を投じても、結局は普通の感覚を持った人間だという部分が良かったんでしょうね。

あとzeroが良いのはキャラクター同士の対比です。こっからは独自の解釈が入ります。

最もわかりやすい対比はやはり、綺礼と切嗣。一見、同じ性質を持ちながらも、真逆の本質を持っています。外面の空虚さ・無感動さ・無機質さに、綺礼は切嗣に自身と同じものを見出しますが、切嗣はその実正反対でであり、性質は切嗣がそうであろうとした結果です。お互いが追い求めたものをお互いが持っている。

ウェイバー、彼は成長という面で切嗣と対比されています。この物語の中ではかなり純粋な存在で、イスカンダルと過ごすで成長していきます。そして少年の頃から成長できない切嗣。特に、一人称の「僕」が彼の内面の幼さを象徴しています。

ケイネスは真っ当な魔術師として登場します。これも魔術の家系に生まれ、魔術を知りながらも、魔術の道を否定した、魔術師から見れば論外な生き方をしている切嗣との対比になります。

そして、龍之介殺人という行為の目的に関して、切嗣と対比されている。切嗣にとっての殺人は平和のための一つの手段です。一方で龍之介は、殺人自体が目的になってしまっている。

この4人のマスターは、それぞれが切嗣の鏡になっているように思います。切嗣の様々な内面と正反対の人間を出すことによって、切嗣というキャラクターを浮き彫りにしていく。そういうやり方があるんかー。これにより、若干複雑な切嗣の精神構造を読者が理解することができたんですね。

遠坂時臣や間桐雁夜については、snに繋がる家の話なので必要不可欠な存在です。

あとこの二人同士、分かりやすいくらい対比されていますね。同じ魔術の名家に生まれながら、歩んだ道が異なっている。そして時臣は雁夜が欲していた葵さんと、彼女との子供を持っており、時臣に対して嫉妬に狂っている様、ありもしない妄想をする様が描かれていました。

それともう一つ、彼らはzeroでの言峰綺礼というキャラクターを掘り下げるために固められているように思います。
雁夜は綺礼が自身の嗜虐性に気づくため。時臣は綺礼が一人の従順な弟子から愉悦を求める倒錯者へ変わっていくことを印象づけるため。

綺礼を唆したギルガメッシュもその一員です。あとは綺礼の父親が聖職者としての彼の最後の砦。これがなくなったことよりある意味で自由を得られるようになりました。

こう見ると遠坂関係全員綺礼を愉悦の道に導くために配置されてますね…。全員が全員違う役割を持って綺礼を追い込んでないか?

とりあえず、何か言いたいのかというと、ほんとキャラクター同士の関係に無駄がなくて素晴らしい。世界観は設定されてるから、組み立てやすいのは2次創作の強みですが、それにしても上手いですね。

というか原作読まずに書いた所感なので、色々食い違っているかもしれない。原作読んだらやっぱ印象が変わるかもなぁ。きちんと読みます。原作。

コミカライズ版の最後には、『ロード・エルメロイII世の事件簿』に繋がる挿話がありましたね。年末のfgo特番のアニメ面白かったです。今年の秋に放送予定だそうで。たのしみだー。


じるる