大観園の黄昏

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fgo1.5部亜種特異点『禁忌降臨庭園セイレム』感想/アビーとセイレムとサンソンの目的について考えてみる

こんばんは。

fgo1.5部亜種特異点『禁忌降臨庭園セイレム』クリアしました。

雰囲気とかキャラクターとか舞台設定はいつも通り素晴らしい。ストーリー自体の終盤の終盤を除いては好みです、が、様々な場所で言われているとおり、拍子抜け。

伏線とか投げっぱなしすぎるし、説明不足な箇所が多すぎる。現場のごったごった感が伺えますね…

クトゥルフとかセイレムについての説明がほぼなく、ネタをブッ込んでくるのは如何なものかと。マシュに予備知識をちょっと言わせるとかしてほしかったなー。

さて、そんなセイレムで放りだされた謎のいくつかを自分なりに考えてみよう、というのが今回の試みです。
なんとか整合性を取れるよう勝手に妄想をします。

アビゲイルの存在について

まずアビゲイル・ウィリアムズ。

史実ではセイレム魔女裁判という事件の中心に位置する人物です。詳しくはwiki等で。

マシュはセイレムの資料を読み込んでおり、当時の名簿にある住民の情報が食い違っていると気がつくほどでした。

ただ、事件の渦中にあったアビゲイルについては何も言及していません。史実においては彼女の言動、告発によって多くの人の運命を狂わせていたにもかかわらず、です。

あれだけセイレムについて知り尽くしていたマシュが、なぜ見落としていたのか?

これには、

fgoの人類史では、アビゲイルがセイレムに関わらない、もしくは中心人物にはならない

②セイレムによって認識が歪められている

という可能性があるかと。

これは、②の理由だと考えてます。それは、アビゲイル何故罰を求めているかに起因します。

終盤でアビーの犯した罪が、魔神柱ラウムによって次々に告発されていきます。これを見るに、アビーは特異点のセイレムで犯した罪を悔いているようです。しかし、実際は、歴史上のセイレムで自分が犯した罪を悔いているとは考えられないでしょうか。

多くの混乱を招き、命を奪ったにもかかわらず、彼女の信ずる神から何の罰も与えられなかった。
彼女は信仰に篤い敬虔な清教徒であることは、作中で何度も描写されています。

「一片の罪を持たない人間がいるのですか…?」

「これは私が受けるべき罰なのだから。あなたが傷つかなくていい。」
「芝居の小道具と違って、人の投げる小石は痛いでしょう…。」


救世主なた。

また、ラウムの言葉。

アビゲイルの信仰の篤さはセイレムを光の綾絹で覆った」
「然ればこそーー呵責がない。善にも悪にも一切の隔てがない。」
「ゆえに罪人たちは罰されず、赦されることもなく、煉獄に留まることになった。」

この台詞から、セイレムの住人もアビー自身も敬虔な信仰を捧げながらも、罰も赦しも得られないセイレムに囚われた罪人であることが伺えます。

そんなセイレムに囚われ続けるアビーを救おうとしたのが、ラウムさん。彼女の信仰する神を異星の神に替え、彼女に接続させ、彼女をその呪縛から解こうとした。外なる神からの罰を与え、罪から解放させようとした。っていう妄想です。

サンソンの目的

そしてサンソンさん。

今回、不可解な行動が多く、劇中の登場人物もプレイヤーも困惑させまくった彼ですが、その行動は一本の線で繋がるでしょうか。

まずは、あっさり処刑された意味について。

これは理由がたぶん2つあって、1つはアビゲイルを魔女として裁くため、もう一つは自身の贖罪のため、だと思われます。

先ほど述べた通り、セイレムは中世のキリスト教世界が色濃く残っています。

ここで注目したいのが、マシュたちがセイレムに滞在する日数が1日目、2日目と章の冒頭で表記されること。これを追っていくと、主人公とサーヴァント一座の滞在したのは8日目までです。サンソンが処刑されたのは7日目。アビーが魔女として法廷に立ったのが8日目

つまりカルデア一座の過ごした最初の7日は、神の天地創造を模しています。

…はい。一応クソ有名な天地創造の内容をざっくり言うと、1日目から6日目に神さまが世界の色んなものを作りました。7日目は疲れたので休みました。
って話。

仮にセイレムでも一週間単位で時間が一周してたものとします。また、ぐだたちがセイレムに来てから再度時が一から刻み始めたものとします。まだ神が存在し、信仰のあったセイレムが7日目まで、8日目からは神のいない、信仰のないセイレムになります。そのセイレムを作り上げたかったのがラウム

7日目の夜に「時は満ちた」という発言はそのため。
それまでは7日目で終わったところをやっと条件が揃って8日目を迎えることができた。
その条件とは7日目以降に

①裁判が続くこと

②アビーが魔女として告発されること

だったのではないかと。サンソンは裁判劇を続けるため、自ら断頭台に立ったではないでしょうか。

そしてもう一つの理由、それが贖罪のためです。もしかしたらセイレム自体のテーマが「贖罪」なのかもしれません。

セイレムに招かれたのは自身の罪を想起させ、贖罪のためなのかと考えました。というわけで、セイレムに招かれたサーヴァントたちを改めて見ていきます。

まずサンソン、彼はそもそも贖罪したいマンなので、説明不要。

マタ・ハリ、彼女は裁判劇の中で、彼女のスパイとしての罪の意識を想起させる場面がありました。

キルケー、彼女はメディアとして招かれます。型月版メディアは、殺人について罪の意識があります。呪いをかけられたとはいえ、弟を殺し、国を裏切り、王を殺してしまった。メディアとしての罪の意識がセイレムへと招いたのではないでしょうか。

ただ、ロビンと哪吒は普通でしたね…彼らには贖罪というキーワードからは離れているように思えます。

この例外から察するに、裁判劇に加わった時点で、罪の意識が想起されるのかもしれません。こうしてみると、マタ・ハリ、サンソン、メディア、罪の意識があったものだけ、想起されたものだけが、法廷に立たされています。

つまり、セイレムとは、神に見放された人々が自身の罪と罰に向き合うドフトエフスキー的主題をもった物語だったんだよ!

…穴ぼこだらけの理論だあ…

ただ、この仮説から生じる疑問としては何故ぐだが法廷に立ったのか。これまでの説でいくと、ぐだに何かしらの罪の意識が想起されているはずです。では、ぐだの抱いていた罪は一体どういうものだったのか。

ということで妄想終わり。

あとカルデアに戻ったサンソンたちがクロックマダムを食べてた理由について。

たぶんあれはセイレムの飯がよほどまずかったのではないかと。セイレムだと受肉してたので、サーヴァントともいえど食べなきゃいけない状況だったしね。

というかメディアと一緒に食べるならキュケオーンを出すというか、キュケオーンらしきものを作ってみたら良かったんじゃないかな。そこで、メディアが懐かしさを覚えてほろっときたり、そこからロビンがセイレムでの苦労話始めたり。で、そっと話を聞いていたキルケーがくすっと笑って終わり。みたいな!

で、蛇足妄想終わりです。


じるる

三島由紀夫『詩を書く少年 』感想

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

三島由紀夫集の何編かを読み終えました。今回はその中で『詩を書く少年』の感想を。

三島由紀夫については、不勉強な部分が目立つかとは思いますが、ご容赦ください。

あらすじ

タイトルのとおり、詩を書く天才少年が主人公のお話。彼が天才であることを周りも認め、彼自身もそのことに確信を持っています。彼の考えるの天才とは、夭逝した人物であり、そんな天才に憧れを抱きます。周りの人間のレベルの低さに辟易しながらも、似た感性を持った文芸部の先輩Rと交流を持つことに。Rとの詩を語る時間に楽しさを覚えますが、Rは誰かとの恋に落ちます。主人公の少年は、恋を知った先輩がどんどん凡庸な人間になっていくのを感じ、いつしか自分も天才ではなく凡庸な人間になっていく可能性を見ます。

この作品はまさに三島由紀夫自身を描いたものとされています。多少の肉付けは違えど、三島自身の体験や心情がそのまま主人公に与えられており、作中の主人公の言葉からも三島そのものを感じさせます。

言葉さえ美しければ良いのだ

この言葉の清々しいほどの傲慢さ。いいですねぇ。

この作品からは、恋愛への嫌悪、天才の夭逝への憧れ、そして、少年の頃の芸術家への夢想が伺え、ここらへんを読み解いてみたいと。

恋愛への嫌悪感

まずは恋愛への嫌悪について。恋愛という感情が魅力的な人間をただ凡庸な人間に変えていくことへの失望は、他作品からも伺えます。何編かしか読んではいないのですが、その考えが垣間見える部分がいくつかあったので、抜粋。

昇は去年の顕子の不感不動に、あれほど独創的なものがあったからには、彼女の体に蘇った歓喜は、顕子をもう一度独創的な女に、昇の見たこともない新しい種類の女に、ほとんど崇高で悲劇的な女に、生れ変わらせるだろうと想像していた。しかるに歓喜を知った女は、かけがえのない男に対する女の屈従の見本となり、昇の知ったどの女よりも凡庸な女になり、忽ちそこに腰を落ちつけ、生れ落ちたときからそこに居るような顔をしているのだった。

『沈める滝』より

こうして入ってきた耀子を見ると、誠はゆえもしれぬ感動にとらわれ、この部屋にしばらく居てくれるようにと頼んだ。その語調には、気のゆるみから生じた懇願の調子がうかがわれたので、耀子は半ば目を伏せて座った。
誠は今ほどこの無垢な女を愛している瞬間はないように感じたが、今に限って彼はこの種の感情をゆるしておきたくないと思った。

僕は自分が陥った凡庸な不幸を何とか非凡なものに作り変えたかった。そこで僕がやったことは、彼女を口説いて屈服させることだ。

『青の時代』より

ここらを読んで、三島が抱いているのは、女性への失望だと受け取っていたのですが、恋、それをすること自体が人を凡俗に貶めるということへの失望なのかもしれません。それは、同性であるRに対する失望から性別を隔てたものでないこと、そしてそれが自他を問わないことが分かります。

天才の夭逝への憧れ

そして、少年の天才の夭逝に憧れる姿も描かれています。
確かに、様々な分野、文学・絵画・音楽とかに夭逝の天才って多いよなぁ。

むかーしbuzzかロキノンで早死にしたロックスター特集みたいなのがあって、その数の多さに驚いた記憶があります。たいてい27歳前後でオーヴァードーズ・事故死・自殺などが死因を占めます。これを読んだ若かりし私は、27歳で死ぬ人生かっこええ!と、憧れを抱いたりしていました。

若いうちに功績を残し、そして死ぬ、という劇的な人生は人々の記憶に残りやすいのでしょう。

主人公の少年も、儚く人生を終わらせる天才たちを見て、憧れ、それが天才の条件だと捉えました。

また、少年はゲーテは長生きした、というよりかは単純な理由から、ゲーテは天才ではないと嫌います。しかし、ゲーテは結局天才で、創作することによって死を免れたという結論に至ります。

芸術家への夢想

そして、三島の今まで触れた作品の中には、芸術家の狡猾さを理解していない、といった類のぼやきがでてきます。
また引用します。

良人は或る小説家の大家に傾倒していて、昇にしきりに同意を求めたが、昇の目から見ても、この男は作家たるには、芸術に対して、切手蒐集家のような幸福な夢を見すぎていた。

『沈める滝』より

誠はまだ芽吹こうとしない街路樹の梢に目をやって、ふとした気の迷いで、自分はともすると空を見る癖がある、いっそ詩人になればよかったのだ、と考えたりするが、芸術家が必要とする真の狡智を知ったら、彼もまたこの職業を唾棄すべきものと思ったであろう。

『青の時代』より


そして、『詩を書く少年』。
『詩を書く少年』の主人公は、ただ己の感性のみで詩を表現し、芸術家の姿を夢想しています。

芸術と芸術家をごっちゃにする幻想、世間の甘い少女の目が芸術家というものにむけるこんな幻想に、彼自身がしっかりととらわれていた。自分という存在の分析や研究には興味がなかったが、いつも自分で自分を夢見た。彼自身が、あの少女の裸が造花に変貌するような変幻きわまりない比喩的な世界に属していた。

『詩を書く少年』より

私たちの想像する芸術家の姿とは、やはり感性のみで生きる人間です。しかし、現実はそうではない。三島の作品では、具体的には述べてはいませんが、芸術といっても、本質は商売です。芸術家なら芸術家なりの営業能力であったり、自己演出力などもろもろが求められます。人々が何を求め、何を感じ、自分と自分の作品をどう売るのか、それらが試されていく。三島はそれを身を以て体験したはずです。『詩を書く少年』の芸術家への夢想が現実となり、そして裏切られ、三島由紀夫になっていったのだと思いました。



じるる

fgo 『亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負』感想/擬似サーヴァントの情報整理

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

『亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負』クリアしました!
面白かったー!

江戸時代に軽くタイムスリップした感覚があり、没入感高くてグッド。

英霊剣豪七番勝負の骸骨の山をバックに筆字といった演出も格好よかった!

武蔵ちゃんを毎回編成しないといけないのは、苦労しました。敵も強いし、追加効果エグいし、HPゲージ3本が当たり前だし。まぁ、結局令呪でごり押しですわぁ。

とにかくエンタメに振り切ってたのが良かったです。単純に面白いってのはええですね。

武蔵ちゃんのキャラクターも良かったです。戦いだけを求めて世界を流浪する。それだけでもうカッコいい。
あとよくわからない丁寧語の喋り方が好きです。「〜なのです!」「〜しましょう!」みたいな。お姉さん感溢るる。

配信当初はパクり問題で揺れていたそうですが、勉強不足で山田風太郎著『魔界転生』を読んだことがないので、どこがどうとかは指摘はできない。まぁでも面白かったので、元ネタ?の方も読んでみたいと思います。

話の筋もテーマもキャラクターも被ってたらアウトですけど、fgoの方はfgoらしい肉付けがされていたので、好意的にみてます。

たしかに若干の違和感といえば、序盤のぐだの行動で、村人が惨殺されているのを忍んで眺めているシーンかな。今までのぐだだったら、理屈では分かっていても止めにいく気がするんだけどな…

とりあえず、英霊剣豪の感想をネタバレを含みながら綴っていきます。以下からご注意ください。


佐々木小次郎について

なんか立ち絵が武内さんの絵になってる!それはともかく、人々のイメージによって作り上げられたのが下総国の小次郎なんだよな。

また、英霊シナリオは武蔵と小次郎が出会うための物語だったんだなと終盤で感じました。小次郎という幻を追う武蔵とその幻の具現たる小次郎。fgoの人類史では出会うはずのない二人が相対し、決着をつける。まさに運命との対決です。こういうアツいのいいね!たまらんねー。
そのおかげで、その世界を生きた武蔵とも対面することができた。もはや戦うことに意味などなく、対峙することで武蔵の念願は果たされていくことになります。よかったねぇ…

そして武蔵ちゃんの流浪の旅は決して元の世界に戻れぬものと知ります。剪定事象の世界を彷徨い、元いた世界は消えている。その事実を受け止め、零の境地に至る…そしてまた果てなき放浪の旅へ…ええよーええよー。

気になったのは小次郎との対決での空間。ぐだが武蔵の名を読んだことで、決着がつく描写でした。

なんか量子力学的なアレなの…?観測者が存在することによって事象が存在するみたいな…。ド文系なので、ここに突っ込んでくとバカが露呈しますが、そういう可能性もあるんだろうな、と。SFな方向に行くのかしら。
ぐだの観測した範囲でしか事象が存在しないって話になったらそれはそれで面白そうではある。ほんとにただの人間なんですかね…私はぐだが人類悪説を推すぞ。

擬似サーヴァントについて

今回は千子村正が、衛宮士郎の人格を借りてサーヴァントとして現界していました。擬似サーヴァントとして限界する条件は、①霊基が強すぎる②霊基が弱すぎる③英霊本人が現界に乗り気でない、っていう3つのパターンに分かれると解釈しています。
まとめてみると、

①のパターン:シトナイ、イシュタル、パールヴァティ
②のパターン: 村正
③のパターン:孔明ラスプーチン

って感じですかね。

村正は霊基が弱すぎるから、士郎を呼んでサーヴァントとして成立している。

擬似サーヴァントやらデミサーヴァントやら受肉したサーヴァントやらごちゃごちゃしてきますね。
とりあえず、擬似サーヴァントが現代の人間の人格を借りたサーヴァント、デミサーヴァントが人間の体に英霊の力が宿った状態。それで永続的な戦力としてマリスビリーが考えていたのがデミサーヴァント。このデミサーヴァントの研究と、ソロモンが受肉を願ったのとどっかで繋がってんじゃないかと私は思ってます。何の願いもなかったソロモンがいきなり受肉を願ったのに違和感。マリスビリーは何でグランドサーヴァントを召喚できたかについても疑問。それらは明かされる日は来るのか!わからん!

fgo第2部への布石

話を戻して英霊剣豪、第2部への数々の布石も置いていました。


ここで「宙より空想の根が落ちる」っていってるんですね。こういう一見ただの比喩表現に見える描写が、意外と設定に関わってくる言葉だったりするのが、面白いです。また、この言葉からやっぱり下総屍決舞台は、特異点というより異聞帯といった方がいいのでしょう。

そしてこの武蔵ちゃんの言葉も気になりますね。ここもマリスビリーの思惑が何かあるのでしょうか。

あと布石としては、キャスター・リンボや、サタンって何ぞやってこととか。

まとめてみると、異聞帯という人類史のifの世界が存在する、ということを伝えるための章でもあったのかな。いきなり2部始めた人間にとってはついていけなかったからなぁ。やっぱり2部への足がかりとして、1.5部はやった方がええな。
こう考えてくと新宿がホームズの加入、下総が異聞帯の存在の可能性の示唆のための章だといえます。ん…?じゃあアガルタは…?アガルタは何だったんや…神秘の秘匿が侵された時にどうなるか、ということを伝えたかったのかな…?見落としているだけで、きっとどこかに二部に繋がる要素があったのかもしれません。

で話は変わって、石が30個勝手に消えてる事件が我がカルデアでありました。メルトリリスのために貯めといたはずなのに…これは乗っ取られたか?と思い、ブログ内の自分のサーヴァントの情報のわかるスクショは消しました。まぁ寝ぼけて回してたかもしれませんが、一応自衛で。まぁ育成サボってる無課金のアカウントなんざほぼ価値なんてないんですけどね…
勝手になくなった石でひいたガチャの結果を鑑みるに大爆死…なんか星3の礼装が増えてると思った。

まぁぼちぼちがんばりたいと思います。


じるる

金武観音寺/鍾乳洞と沖縄にもブッディズム

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

沖縄で今帰仁城以外もどこか行ったなー、と思い出したのが金武観音寺金武観音寺のある沖縄県北部に位置する金武町(きんちょう)はタコライス発祥の地であり、基地の町です。沖縄といえば観光産業ですが、この町は観光というより米軍基地の恩恵に与る部分が多いようです。
金武観音寺はそんな町にある、のどかなお寺です。訪れるのは多分二度目。

お寺としては珍しい沖縄らしい建築。赤い瓦が使われています。ちょうど沖縄の昔の木造建築のつくりで、お堂が建てられたみたいな…。外観は本土のものと一緒です。何でも戦災から逃れた数少ない沖縄のお寺らしく、昔の沖縄に少し触れることができます。
境内には亜熱帯らしい木々や草が茂っています。その中のフクギが町の文化財に指定されているそうですが、いまいちどれか分かりませんでした…。フクギは亜熱帯に生息する常緑樹だそう。ググった画像をみるかぎりでは、マングローブの根っこが露呈してない版みたいな感じかな?まぁ本土だと馴染みの薄い植物です。そこらへんもうちょっとゆっくり見ればよかったなと思います。

宗派は真言宗。本土から流れ着いた日秀上人が開いたとされています。日秀上人とその伝説については、また後ほど。

そしてお寺の構内には鍾乳洞があります。実はここに入るのが今回の目的です。鍾乳洞があるのは知っていたのですが、なかなか訪れる機会がなく…せっかくの機会なので行ってみました。鍾乳洞自体入るのが初めてなので楽しみです。

とりあえず参拝を終えて、鍾乳洞へ。

地下へ伸びる階段が続いています。静けさと緊張感の中、内部へと赴きます。内部は湿っぽく、階段は濡れており、ところどころ水が溜まっています。

鍾乳洞の中は暗く、奥が見えません。途中水天様が祀られている祠があります。一応お参り。ちょっとお邪魔しますよっと。その奥に鍾乳石が見えてきます。乳白色の柱が伸びています。これが鍾乳石かぁ、という感じ。なんか不思議な自然物ですね。

さらに奥へ奥へ階段を下っていきます。階段を降りた先は真の暗闇でした。まだ昼にも関わらず、陽の光は完全に洞窟の奥の暗闇に吸い込まれています。目を閉じても開けても黒。本当に暗いと前後の感覚が分からなくなるんですね。そりゃあの中に何時間もいたら発狂するわ。というか暗闇に何時間もいたら人間は発狂する説って、誰が言い始めたんだろう。実際に実験したんですかね。そしたらちょっと、いやかなり怖いな。
それはさておき、暗すぎてどれだけの奥行きのある空間なのか分からない。ここから奥へ行くことは断念し、引き返します。


鍾乳洞から見上げた時の光が綺麗です。
陽の光を浴びられてホッとします。

数年前は内部がライトで照らされいて、奥の方まで進めることができ、そこには金武の泡盛「龍」が貯蔵されている風景があったそうです。その時に行けばよかったな、と後悔。なくなったのは鍾乳洞の保護が目的でしょうか。

お寺の売店に「龍」が売ってた頃もあるんですが、今は営業していないのか、売店は閉まってました。

この鍾乳洞には大蛇の伝説があります。その昔、金武間切(琉球王国の時代では間切が土地の区切りを表す言葉でした)ではこの洞窟に大蛇が潜んでおり、一定の時期に若い女性を捧げないと暴れ出したそうです。よくある人身御供ですね。そこに現れたのが日秀上人です。日秀上人は上でも述べたとおり本土からやってきた高野山真言宗のお坊さんで、実在した人物であるようです。当初は中国に渡ろうと船を出しました。まぁ真言宗密教だからね、大陸が本場だね。そして流れ着いたのが琉球の金武。村の人間に助けられ、その時彼は「ほこらしやみなと!」と言葉を発したそうな…
まぁそれはさておいて、救助された日秀上人は村の人々に恩返しをしようと考えます。そして村人たちが件の大蛇に悩まされていることを知ります。
そこで日秀上人は大蛇退治に挑むことにしました。そして大蛇を鎮めることに成功し、結果、村に人身御供の風習はなくなり、この地に仏教をひろめたそうです。めでたしめでたし。

…なんかこの伝説、箱根の九頭龍伝説と似てますねぇ。箱根神社を開いた万巻上人も芦ノ湖の毒龍を鎮めてたし。大蛇と毒龍という違いはありますが、似たようなもんだろ(暴論)なるたるで原始宗教の龍は蛇のイメージからきてるとしいなママが言ってたけど本当かしら。


鬼頭莫宏なるたる』第40話「火神の車」より

まぁ、上人のドラゴンクエストは寺社仏閣創建時の伝説につきものなんでしょう。

あと日秀上人の伝承については、『金武町の民話と伝説』金武町教育委員会編のものを参考にしました。ほんとローカルな民話は面白いですね。内容をまた確認したいのですが国立国会図書館にも置いていないみたいで…こういう土地土地の民話は足を使って調べるしかないのかな。
ちなみに本に載ってた大蛇と日秀上人のイメージ図。かわいい。


金武町教育委員会編「金武の民話と伝説』より

そして書いている途中に気がつきました。泡盛「龍」はこの伝承が元になっているんですね。勝手に腑に落ちました。だからちょっと前までは鍾乳洞の奥に「龍」を眠らせていたのかもしれません。なんで蛇にしなかったかは、まぁ名前が「蛇」だったらハブ酒に間違われそうだし、響き的に「龍」の方が格好良いからじゃないかと憶測。

あと金武には十何年かに一度、大綱引きというお祭りがあります。人が乗っかれるぐらいの綱を引くというイベントです。これはもしや蛇を模してるのでは…!?と思いましたが、沖縄の各地で催されているようです。まぁ龍をイメージしてるとは思うのだけどな。

最初に述べましたが、金武町タコライスで有名なキングタコスが生まれた地でもあります。実は鍾乳洞を見られるスポットがもう一つあるらしく、それがキングタコスの創業者が開いたゴールドホールという名のカフェ?らしいです。せっかくなので行ってみたい…と思い、新開地へ。
新開地は米軍基地ゲート前の繁華街です。繁華街といっても寂れてはいますが、夕方になると米兵でそこそこ賑わっていたりします。この基地があるからこそアメリカ人向けにタコスを売り出したようですが、タコスってメキシコ料理では…?海外の日本企業のオフィスの前で韓国料理が売ってるようなものでは…?そう考えていましたが、ハードタイプのタコスはアメリカで生まれたもののようです。だからいいのか。
けれども、ゴールドホールは営業時間外ということで、断念。また来ることがあったら行ってみたいな。


じるる

村上龍『69』感想/人生を楽しまないのは罪だ

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

あんまり同じ小説を何回も読むタイプではないのですが、何故か村上龍作品は再読してしまう。『69』はその中の一冊でして、漠然と読み直したくなり、久々に再読しました。
昔購入した文庫本は売ってしまったので、買い直しました。こういうことが間々あり、無駄金払ってる感あるので、やっぱ電子書籍にすべきですね。

とりあえずあらすじ。
1969年、高校二年生の主人公ケンが、仲間たちとともに、佐世保でロックフェスティバルを開こうとする物語です。おわり。

内容は簡単です。けれども、ただひたすら面白い。そして、中高生の時に読んどいた方がこの作品の持つ面白さがそのまま受け取れるように思います。実際私も中学生の頃に初めて読み、こんな面白い小説があるんだ!、と楽しんだ記憶があります。
まさに青春の一冊です。だからこそ一層思い入れが強い、補正も強い。
当時、この作品を読んでかなりワクワクしましたし、影響も物凄く受けました。卒業文集で「〜というのは嘘で」という文句を丸々パクりました。今では立派な黒歴史です。

そして、この『69』は、村上龍さんの自伝的小説です。
多少の脚色があるとは思いますが、村上龍さんの高校時代、出身の長崎佐世保でロックフェスティバルを開催したのは、事実なようです。作中の言葉で曰く、作者が人生で三番目に面白かった年だそう。これで三番目か…

さておき、2019年で物語の舞台となった69年からちょうど50年。節目の年…てのは関係ないか。でも意識せず手にとってしまったのは、何か因縁めいたものがあるのかもしれません。

というわけで登場人物も紹介します。主人公ケンのほかに、炭鉱育ちでイケメンで親友のアダモ、文具店の息子の素朴な友人の岩瀬、憧れの美少女松井和子などが登場します。
ケンは作中では、村上龍さん本人ともいえる人物で、作中通して1人称が「僕」となっているので、以降その呼び方で統一します。
親友のアダモはもう一人の主人公ともいえる人物です。作中で、「僕」がアダモの人生を変えてしまったことがしきりに述べられています。両親からの愛情を一身に受け、進学校にすすみ、医学部を目指していたアダモ。その人生に疑問を抱くことは彼にはなかったし、周りもそういう人生を彼に望んでいました。そこに「僕」を通してランボーを、詩を、知ってしまった。サルトルゴダールその他もろもろを知ってしまった。そこから彼は周りの人間に、社会に疑問を持つようになっていきます。「僕」の目線で見れば、勝手に変わっていったのはアダモですが、周りから見たら「僕」からの影響が大きいようにしか見えない。そこで「僕」が周りから非難される場面もあります。一人の人間を変えたことは作中の最初から最後まで描かれており、作者にも思う所の多い人物であったことが受け取れます。
一方で、「僕」の考え方には大きく変化しません。ただ、自分の行動や言動が自分たちのいる世界を変えられることを知ります。それは通学している学校でのバリケード封鎖や、松井和子との恋、ロックフェスティバルの開催、そしてアダモの変化などからです。これは、若者がもつ漠然とした万能感だけではありません。自分の行動や言動で見慣れた景色は変えることができる、それもこの小説の伝えてくれることの一つです。

この作品、はっきり言って大好きです。特に読後の気持ちの良さが好き。小説を読んで気持ちがスッキリしたってのは結構あるんですが、エネルギーが湧いてくるってのはそんなにない。というか小説というジャンル自体、人間の内に迫っていくものであり、精神的な行いに近いものがあります。けれどもこの作品は、逆に外に向かっている感覚があります。何故か?

単純に物凄く明るいです。ここまで明るい小説は知らない。言っちゃえば陽キャ小説です。というかエネルギーが外に向いている人間が小説を書くのが珍しいのか、なおいっそう異質に思えるのかもしれません。
そして、今でいう陰キャはめちゃくちゃ悪く書かれています。

ちなみに、読んでる当時も今と変わらず作中で悪とされるバリバリの陰キャでした。だからこそこの作品に強く憧れたのかもしれません。

まあ、中学生の時にこの作品に出会えたのは幸運でした。というか、主人公の仲間が校長室の机で便を催すシーンがあるのですが、中学生でなかったらゲラゲラ笑える自信がない。

この作品のテーマは「人生を楽しまないのは罪だ」ということ。
さっき見てたハンターハンターのアニメで、バショウも言ってました。
まぁ実際この考え方は大切だよなぁ。

あと読んでて昔と変わった印象を抱いたのは、やっぱり作中に出てくる固有名詞かな。サルトルだのユリシーズだのランボーだのは無知な中学生にはただの単語の羅列にしか見えませんでした。実際、単語の羅列というのは正しくて、作中でも主人公のケンがモテるため、相手を言いくるめるための手段で使った言葉なんだけれども。それと時代背景が当時より理解できてるかなーってぐらい。サルトルがその時代のトレンドとして扱われているあたり、実存主義という思想がまだ波に乗ってた時代だと分かるし。

あとこの時代は学生運動が盛んですね。若いエネルギーがここに費やされていた感。作中で述べられているとおり、アカい思想だったりは、女の子にモテたいだの学校の教師に反抗するための高校生のとってつけの理由として用いられています。格好だけはつけても、その思想に本気で心酔したり、ましてや革命を起こそうなんて考えている高校生はいなかった。少なくとも佐世保では。今見ると、とんでもない時代に思えますが、不純な動機で活動していた人間が多かったのだ、と改めて感じました。

また、時代が違えど、思春期少年の考えることは変わらんのだなー、と。女の子にモテたい、楽しいことがしたい、めんどくさいことはやりたくない、etc。
この熱量とこの時代だけのもの、と村上龍さんは書かれていましたが、そこは微妙に違うのではないかなぁ、も思います。その時代その時代で違った方向に向かった熱が若者の中にあって、その世代をすぎると途端にその熱に対して鈍くなってしまうだけなのではないかと。しかし誰もが「何かが変わるかもしれない」という漠然とした期待を抱いていた世代というのは本当なんだろうな。
実際90年代以降、何か世界が大きく変わる予感ってあんまりなかったように思います。90年代、00年代はインターネットの普及によって色々世界が変わっていく様が見られましたが、それは後から見た世界であって、その年代にいる最中では、何かが大きく変わるって予感も期待も何もなかった。気がついたら大きく変わっていた、って感じです。

それと、自分に好意を抱いていた中学の同級生の習字とヘッセが好きな真面目な女の子が、高校生になると黒人のパンパンになっていたことは、作者の小説家としての原点であり、『限りなく透明に近いブルー』に繋がっていくんだなぁ、と。

最後に1969年という安保闘争を象徴する年に、米軍基地の街佐世保で高校3年として生きるってのは、なかなか運命的ではないかと感じました。ここにこの時代でなかったら、小説家村上龍が生まれてなかったともいえます。

結局、読んでて楽しいので、また再読するかも。


じるる

玉簾神社にいってきた/箱根と龍神

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

先月、箱根に行ってまいりました。もちろん温泉が目的です。箱根といっても日帰りだったので、湯本でぶらぶら。箱根湯本は良いお店がたくさんあり、自然があり、雰囲気が素敵で楽しかったです。

温泉ついでに神社に立ち寄りました。というかその温泉に立ち寄らなければ、永遠にその存在を知らなかったであろう場所。その名も玉簾(たまだれ)神社

箱根には数多くの温泉場がありますが、玉簾神社はその中の箱根湯本温泉、須雲川沿いにあります。
そしてこの神社、天成園という旅館の敷地内にありました。

旅館のそばの門をくぐると神社の敷地になります。門の前にアヒルやら鴨やらが歩いてました。旅館で飼ってるみたいです。のどかやー

神社の手前に玉簾の滝なる滝があるとのこと。これが名前の由来なようです。
門をくぐると、滝が。これが玉簾の滝です。

間違えました。飛烟(ひえん)の滝です。実際に看板見るまで勘違いしてました。

滝壺には鯉がゆうゆうと泳いでいます。

水面の岩を伝って近くまで見に行くことができます。

手前で見た滝。

そばに湧き水がありました。
箱根路の始まりとして旅人がここで喉を潤したそうで。

奥へ進むとついに本当に玉簾の滝の登場です。

滝の岩に注連縄が巻かれています。

そして何故か大音量で流れる昭和歌謡。演歌かもしれん。

恋愛成就の絵馬が並んだり、貞子の井戸が何故か置かれていたり、なかなかの俗っぽさを感じます。いいぞ〜、このわけわからん感じ。

そしておみくじが自動販売機でした。お金を入れた瞬間に下に落ちてきます。ものすごい速さでした。

二つの白糸の滝があります。滝に注連縄と紙垂があるのは初めて見たな。

ここにも鯉が泳いでいました。こっちの鯉はでかい。全て旅館がお世話しているみたいです。

そしてここも滝の近くまで寄れます。
近づいてみると、岩の存在感が増します。

隣の滝。なかなか。
そしてこの玉簾の滝、昭和天皇とのゆかりがうんぬん。

そしてメインの玉簾神社へいざ参拝。
…ん?

なんとメンテナンス中でした。
そうっすか…メンテ中ですか…

とりあえず仮設の賽銭箱があったので、そこで参拝いたしました。
先月の話なので、今はどうなっているかは分かりません。もしかしたらもうメンテ明けてるかもしれませんね。

その後は主な目的である温泉へ。目の前の旅館の天成園さんのお湯いただきました。アルカリ泉の良いお湯でした。
露天風呂が特に良かったです。目の前が山で、遮るものが何一つない!贅沢ですね。露天風呂自体が屋上にあったので、神さまを見下ろすのは若干の違和感ですが、そこから玉簾神社の全容が見えました。

ちなみにこの玉簾神社は、箱根神社の分社だそうで。というわけで、主祭神は箱根大神。箱根大神は、ニニギノミコトコノハナサクヤヒメ、ホオリノミコトの三柱の総称だそうです。
箱根には九頭龍の伝説が残っています。芦ノ湖で暴れていた毒龍を箱根神社を開いた万巻上人が仏法を説き、人々に害をなす龍から龍神へと変えたとされています。箱根神社の9匹の龍の口から水が出る手水?みたいなのは、色んなとこで紹介されていますね。というわけで龍神信仰のみだと思っていたのですが、ちゃんと別に神さまがいらっしゃったのですね。というか坊さんが神社開くとかよくわからんな。

こっからはブラタモリの箱根回で知った内容。たまたま見た回です。
上で述べたその毒龍のもとになったのではないかというものが挙げられていました。それは湖底にある杉で、湖底木と呼ばれているそうです。箱根山芦ノ湖はかつて山体崩壊によってできた地形だと考えられています。要は大昔に山がぐしゃーっと崩れて出来たのが箱根だそうです。その時の木々が山と一緒に雪崩れてきて、今も芦ノ湖の底に突っ立ってるとか。その柱によって芦ノ湖の波が荒れ狂うようになったとその番組では考察されていました。ちなみに先程の万巻上人の話でも、湖底にある杉に毒龍を巻きつけたという話があるので、湖底木がこの伝説と密接に関わっているのは確かなようです。

そしてその毒龍もとい龍神様が祀られている芦ノ湖から早川に下り、その流れが下流の湯本の玉簾神社に繋がっているんですね。だからこそ龍を象った湧き水があるのでしょう。

と思ったのですが、玉簾の滝、早川でなく須雲川ぞいにありました。須雲川は芦ノ湖が注いでいる川ではない、つまり玉簾の滝は芦ノ湖から流れ込んだ滝じゃあないのです。まぁ須雲川自体早川に流れ込むので、箱根の川といってもいいのか…?でもそれじゃあ利根川東京湾に流れ込むから東京の川だと言っているようなものではないのか。果たして箱根を流れてるから箱根の川としてのアイデンティティはあるのか。いや、別にそこは問題にしなくてもいいか。

なんというか玉簾神社は、旅館との共同運営というか、旅館がほぼ運営してる感じの神社でした。なので、普通の神社と違って娯楽施設のような面白さがありました。

そして箱根、できるならポーラ美術館やら彫刻の森美術館に行きたかった…!でもあれは山の上で、湯本から結構距離があるんですね。地理の理解がガバガバです。
箱根は再度ゆっくり見て回りたいな。

まぁいつ行ってもどこ行っても楽しい場所なので、オーライです。箱根の行楽は季節を問わない。素晴らしい。


じるる

三島由紀夫『沈める滝』感想 \無機物への愛

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

三島由紀夫作『沈める滝』を読みました。

久々の三島由紀夫、『金閣寺』以来です。というか『金閣寺』しか読んでない。その時は「タイトルは知ってるから読んどこ」レベルで読んだ記憶があります。当時は教養レベルというか読解力が貧困だったのか、読みづらいな、と感じていました。今考えると何言ってんだお前はって話ですが。その後、三島の文章は綺麗という話を聞いたときは、実感としてはあまり湧きませんでした。それから今まで三島由紀夫に触れずに生きてきたのですが…

そして『沈める滝』です。三島由紀夫全集の一編として載っているものを読みました。

今になって初めて文章が綺麗という意味が分かりました。
あまり聞きなれない表現や、言葉、言い回しでも水のようにスッと体に入る。しかもその表現や言葉が泉のように湧いてくる。ああいうのを文才というんだろうなァ。

ストーリーとしては、まだ私の読解力不足なのか何か怖い話なのか?と思ってしまいました。成長していませんね…

とりあえずあらすじ、というか物語の流れ。まぁ何十年前の作品ですが完全ネタバレです。ご注意ください。ざっくりいきます、ざっくり。

財を成した実業家の孫として生まれた主人公のと、不感症の女である顕子の奇妙な恋物語です。
際立ったその他の登場人物としては、会社の同僚の瀬山、顕子の夫の菊池、亡くなった祖父などなど。
金持ちで何一つ不自由なく育った主人公。子供の頃より興味を持っていたのは石と鉄です。社会に出た昇は、真面目に生きる反面、様々な女性たちと一夜限りの恋をします。
顕子はそんな淫蕩に耽る生活を送っていた昇の前に現れた女性の一人です。昇は今まで接してきた女性と異なる不感症の彼女に惹かれていきました。
そんな折、昇はダム建設の現場へ赴き、越冬を経験します。越冬は過酷なもので、最中にトラブルが起こり、その発端の同僚の瀬山を殴ったり、若年の同僚が精神を病んだり、不安な展開が続きます。ここで昇は顕子のことを思い、彼女という存在が観念化されていくことで、自分が初めて凡庸な恋をしている可能性に気づきます。
そして無事越冬を終え、顕子に再会します。顕子にはその時すでに夫がいましたが、二人の恋は燃え上がっていきます。顕子の不感症も昇への愛によって治療に至るのですが、ここで昇は違和感を感じるようになります。あれだけ惹かれた女性が凡庸な女性になっていく感覚。顕子に冷めていく昇と反比例して、ますます昇への思いを募らせていく顕子。この二人の温度差は日を増すごとに拡がっていきます。
再度ダム建設の作業現場へ赴くことになった昇。昇を想うあまり、顕子もついていくことになります。この頃には昇の顕子に対する感情は冷めきっているので、顕子に対して素っ気ない態度をとります。都会で育った顕子は、大自然とダム建設の工事のうるささと昇の気持ちが離れていることに、精神を疲弊させていきます。
そこで顕子の夫の菊池の登場です。昇と顕子の関係を問いただすのと同時に、顕子の不感症がいかにして治療されたのか興味を持ちます。そして結局、菊池が顕子を連れて帰ることに昇は承諾します。
その後、菊池を呼び出したのが瀬山だと分かります。瀬山は越冬中昇に殴られたことを恨んでいました。そして顕子とは不倫関係だということを掴み、絶好の復讐の機会ととらえ、行動に移しました。菊池との会談後、動揺した昇の様子を見物しに、昇のもとへ赴きます。
もはや疎ましく感じていた顕子の存在が消え、スッキリとしていた昇でしたが、瀬山が来ると沈んでいる体を装います。復讐が上手くいったと思い込み、晴れ晴れとした瀬山かと思いきや、彼は意外な反応を見せます。何故か昇に心服するようになるのです。
そして彼のためを思って、東京に連れ戻される顕子に告げます。昇は顕子についてこう言っていた、と瀬山は伝えます。
『あの人は感動しないから、好きなんだ』って」
顕子はショックを受けます。彼女は石と鉄ではできていない。そんなことを考えている昇が石と鉄のような、ダムのごとき人物である。そして今の熱を持った彼女への無関心さが瀬山の言葉によって確信に変わりました。
彼女は絶望し、死を選びます。作業現場近くの小さな滝のそばで。
時は進んで五年後、ダムは完成します。大自然の中で、石と鉄で出来た巨大な人工物は人々の心を震わせます。昇は顕子の自殺した小さな滝の跡地に向かいます。その滝は、ダムの建設によって今はもうありません。そうして物語は幕を閉じます。

こう見ていくと、石と鉄が物語を通してのキーワードなっていることが分かります。巨大な石と鉄の象徴がダムです。そして滝は人々の感情の流れだと思うのです。建設中のダムは、自分が何者か確信を得ていない昇の姿と重なります。最後には昇以外誰も心を動かさなかった石と鉄が人々に感動を起こします。そして昇に対する小さな感情の流れは永遠に失われてしまった。
石と鉄しか愛せない人間、それと同時に普通に人を愛すことができないかと模索する主人公の姿も見えてきます。結局は瀬山の顕子に対する告白で、昇も自身の性質に確信を得てしまった面もあるように思えます。

というか告白の場面、あれだけ疎ましく思っていた瀬山が昇のかなりの理解者であり、その上で肝心な所を掴んでないっていのがよくわかるシーンで、なんか好き。というか瀬山っていう人物おもろすぎる。いい感じにポンコツで、こいつが何かする度に笑ってしまう。告白の場面はやらかした感があって笑えませんでしたが。そしてこの瀬山、ものすごく俗っぽい。「人間的」という言葉を彼は多用しており、その言葉を昇が毛嫌いしていたのも、昇という主人公を表してるなぁと感じます。

で読み終わった時の率直な感想がなんか怖いなのですが、その理由としては、石と鉄として愛した女性がダムの完成によって永遠の存在になったのではないか、と思ったからです。石と鉄になってしまえば、彼女の気持ちがどうなろうと関係がありませんもんね。ここで、ヤンデレ的な発想に飛躍してしまう所、自分がかなりオタクカルチャーに毒されてるのを実感しますね…。顕子という存在が昇の中に残り続けているのは正しいかと。最後に小さな滝の跡に立ち寄ってるし。

凡俗な世界に身を置こうとした昇が、顕子の存在によって、やはり自分は石と鉄の世界に生きる人間だと再認識した物語であったようにも思います。

この話は何か心が動いたというより、ストーリー展開と文とテーマの計算と洗練が伺え、そこに気持ち良さのある作品だと感じました。ちょっとした作品でもこういうのをさらっと書けるから三島由紀夫なのだなぁ、とも。いや、もしかしたら苦労して描いたのかもしれませんが。まぁ調べるとこは調べるって基本的なとこは置いといて、迷走してる所がほとんどないように思います。

最後にこの小説で好きな箇所を載せときます。


こんな種類の人間を押し進めてゆく情熱には、何か最初に、最低の線でしか社会とつながるまいとする決意があって、結果的には、心ならずも、最高の線で社会とつながってしまうようになるものだ。


じるる