大観園の黄昏

漫画小説アニメゲーム映画音楽美術史跡寺社仏閣の感想を節操なく書いていきます

大友克洋 『惑星TAKO年代記』感想

こんばんは。

ご無沙汰しております。

大友克洋さんの短編集の一冊である『彼女の想いで…』を読み終わりました。AKIRAで有名な大友先生です。首都高でのバイクシーンがやたらパロディ化されているあのAKIRAです。来年2020年に東京オリンピックが開催されることを予言していただかなんだか言われているAKIRAです。

その大友克洋さんの短編、『惑星TAKO年代記について。

失礼ながら、別段言及すべき作品ではないかなーと思うんですが、一応一番最近触れた作品なので、色々言っておこうと。

まずは作品情報から。1981年、徳間書店、SFアドベンチャー 3月号に掲載。18ページほどの短編です。

1990年大友克洋7冊目の短編集、『彼女の想いで…』に収録されています。

この他シリーズとして『惑星TAKO年代記 黎明編』があります。ちなみに黎明編は10ページ程度。なぜ続いた。

こっちは、JIC出版局、宝島、1982年2月号に掲載。

まずは『惑星TAKO年代記』のあらすじから。

地球とは別の銀河系の話。惑星TOROを太陽とした太陽系TOROの中に、TAKOという惑星とIKAという惑星があった。同じくTORO太陽系の中にANAGONという惑星もあり、その衛星にUNIという天体もあった。そのUNIをめぐってタコとイカは事変が起こった。それを皮切りに両種族は長い戦争をはじめる。悲劇を乗り越え、惑星の覇権を手にしたのは科学の発展したタコでした。タコの統治が始まります。

そして二章スタート。

タコ族が覇権を握ったあとの惑星の歴史。王族のタコが統治を始めます。王族のタコタコではなく、神として扱われ、彼らと庶民の間には大きな隔たりがあります。その不満がどんどん積み重なり、クーデターが起こるに至り、タコの女王に突撃。その姿が民衆の前に露わになります。民衆が見た神の姿は自分と同じタコでした。かくしてタコの王権支配は終わるのでした。民衆が化けの皮の剥がれた女王タコを罵倒するシーンで終了。

おまけの黎明編。

TAKO種族の文明が発展する前の話。ふつーのTAKOの中で立つことのできるニュータイプが生まれる。そこから文明が発達して…人間と似たような進化を遂げていく。おわり。

…うん。なかなかシニカルな作品ですね。というか、黎明編とか手塚治虫の『火の鳥』のパロディか何かなのかしら。調べてみたところ、『火の鳥 黎明編』は、1954〜55年くらいの作品だそう。年代が全く違いました。しかしパロディではあるようですね。

内容としては、別の生命体のタコの歴史を、人間の歴史と重ねただけでした。

原始的な生活から文明が興り、権力者が生まれ、革命が起きて民主化して…という近代までの流れを踏襲しているだけです。それをかなり一歩ひいた目線で描いている。

しかし、人間の行いを別の生物に置き換えると、ほんとにどうでもいいことで苦しんでいるように思えてきますね。

人間が死んだり悲惨な目にあったり苦しんだりする様を見て心を痛めるのは、相手が同じ人間だからであって、タコがどうなろうと、単純に可哀想とは思うけど、実際どーでもいい、という印象になる。そういうことに気付かされます。

そして二章。微妙に皇室を揶揄しているような気が。まぁスルースルー。触らぬ神に祟りなし。

どちらかというと、欧州の方の王権神授説のようなものでしょうか。いや、あれは神から統治の権利を与えられているって論理で、神と同一視なんざしないか。欧州の神さまは唯一神だからなー。さすがに神さまの事情が違いますね。

中国皇帝の天子さまは神そのものなんだっけ?よく分からん。社稷うんぬんみたいな。まぁ、神から人々を支配できる権利が与えられるってのは、世界各地に前近代まであったのは確かですね。宗教や神話が強く人々の信仰の中にあるときは、筋が通っているんだろうな。

皮肉ってるだけで思想的な意味合いはない…のかな?

大友さん、反体制みたいな作品結構多いですね。時代のせいなんですかね。

ちなみに、『彼女の想いで…』巻末での大友克洋さんのコメント。

◼️惑星TAKO年代記
確かこれ、誰かといっしょに描いたんですよね。誰だったっけなあ……。誰だろ、この絵。思い出せないなぁ……。もしこれ読んでたら、連絡してください。なんて言うと怒られちゃうよなあ……。ごめんなさい。

謝罪コメントでした。一緒に描いてる人を忘れるなんてことがあるのか…それほど多忙、というか売れっ子だった、ということでしょうか。

一緒に描いたってことは、アシスタント的なものじゃなくて、結構制作に関わってるってことなんですかね。結局連絡は取れたのかしら。

そして黎明編のコメント。

◼️惑星TAKO年代記 黎明編

前に描いたやつの続きが描きたかったんだけど、なかなか載せる機会がなくて。この続きもね、カニ族が攻めて来て……っていう構想はあったんだけど。本当は、壮大な冗談物語をやってみたかった。オール寿司ネタで。

これを素直に読むに、ほんとに好き勝手描いたのですね。羨ましい状況です。ただ話を思いつくは一般の人でも多いと思うのですが、それを不特定多数が読むに足るレベルまでアウトプットできるのは、さすがとしか言いようがない。他のコメントを読んでいると、アウトプットが上手くいかなかった作品もあるようですが、それでもすごいぞ。

にしても、やっぱ掲載先は限られますよね、この内容。しかも続編の構想があるとか。続きは同人誌で出しましょう。

にしても、ストーリーについては、正直かわいらしい発想だなとも思ったり。『AKIRA』のせいか、SFのイメージが強すぎるんだよな。

凄まじいのは、ここまで好き勝手描いて載せてもらえること。この作品、編集の意図なんてほぼ入ってないんでしょうか。時代なのか、大友さんの才能なのか。

まぁあれだけ描ける人なら口だしせんよなー。いや、これだけ描ける人でも思いついた短編をポンポン商業誌に載せてもらえるって出版不況の今じゃなかなか考えられないような…。

今だと漫画の中に美男美女美少年美少女が登場しないと掲載は難しそう。販売しているとしてもコミティアとかで自費出版とかしてそうな印象。

あとタコもイカも可愛いとはいえないフォルムだし。いや、見る人が見れば可愛いのか…?しかし卑猥がすぎないか。

この漫画のタコ、口周辺部が完全に男性器と化しているんですよね。タコの口?の下に明らかに精巣が描かれているし。そう見えると自然に?、口も竿に見えてきます。8本の触手、そしてお口が男性器とは…なんていやらしい…

それが人間のメタファーになっている、とか高尚な話になるのかしら。

まぁ、続きが読みたくなるって作品ではなかったです。
なんというか、趣味で描きました感半端なかった。って作品でしした。

さて、まとめ。
大友先生、絵が上手い。構図が上手い。コマ割りが上手い。

以上です。


じるる

大アトラス展に行ってきた

こんばんは。

今回はご存知の方も多いかと思いますが、アトラスというゲームメーカーをご紹介いたします。

ゲームメーカーとは言いますが、ゲームを通した神秘体験によって多くの信者を得ているのが、このメーカーの特徴です。

彼らが教えを啓いたのはおよそ30年前の話、世界と人間の在り方を新たな切り口で定義し、己の在り方を見定めていく、その哲学的な色の強い教義になり、民間に広まっていきました。

代表する作品は『女神転生』シリーズ、女神転生から派生した『ペルソナ』シリーズ、『世界樹の迷宮』シリーズなどがあります。どれもゲームという業界で存在感を持ちながらも、一貫したテーマがあります。

また、初代プリクラを開発したメーカーとしても有名です。

ただ、礼拝する施設が今まで存在していませんでした。

そのアトラス、臨時的にではありますが、礼拝のための場が設けられたということで、参りました、大アトラス展

3月末日、秋葉原のこと。ものすごく今更ですが、その様子をご報告させて頂きます。同日開催されていたセガフェス内にて拝殿が設置されました。

ちなみに、セガさまは数年前、窮地に陥ったアトラスを救ってくださいましたメシアです。アガペー

この大アトラス展、二日間限定での設置とのこと。そんな次第で、いざいかむと篤いアトラスへの信仰心を携えて会場へ。

大アトラス展は、サクラ大戦の展示と同時開催となっていました。藤島先生のラフすげーと思いながら、ファンの方々に迷惑がかからんように、いそいそと、奥へ。

大アトラス展

悪魔がぎっしりと。

描かれたのは土居さんでしょうか。肉感にあふれた表現になっています。

ご挨拶。

まずは、今までアトラスが発売したゲームのパッケージの数々が並びます。壮観でした。

因みに私が最初に触れた作品はこれ。

その名もハムスターパラダイス。育成したハムスターをハムスターと掛け合わせて、新たなハムスターを生み出す背徳的なゲームでした。女児向けのファンシーな見た目ですが、今思うとアトラス味満載のゲームでした。

他にも思い入れのある作品が多数展示されておりました。アトラス信者であるつもりでしたが、知らないタイトルが多く、恥じ入りました。

また、懐かしの初代プリクラの筺体もありました。しれっとフレームにいたジャックフロストくん、当時はプリクラのマスコットだと思っていましたが、まさかメガテンの悪魔だとは思ってもみませんでした。ここに潜ませるとはさすがですね。

そしてついにメガテン神社へ参拝。

立派な赤い鳥居の奥には、デカラビア様が鎮座されています。大盛況のようで、行列ができていました。

簡易的な手水が。

ジャックフロストくんがお迎えしてくれます。ここでお清め。

ついにデカラビア様のもとに拝謁へ。御身を目に入れることを畏れ多く感じましたが、視線を感じ、顔を上げました。

なんと可愛らしくも禍々しいお姿でした。星型で一つ目というシンプルなフォルムから溢れるカリスマ感。遠くを見渡し叡智を見通す瞳。

アトラスの未来がさらに輝かしいものになるよう、コンゴトモヨロシク、と祈願いたしむした。

御神体を触れることを許されているようで、不敬とは思いながらも、寛大な御心に甘えて、なでなでしました。かわいい。

ほっこりした気持ちで参拝を終えました。

拝殿横に神社の縁起が記されていました。
ここではデカラビア様は加羅比亜権現と呼び名されているようです。

霊験あらたかなお話でした。

参拝者には、おみくじを頂けました。ありがたく頂戴します。ぴらり。

結果はニュートラルでした。中立です。カオスもローも倒す過酷な道…いいですね…自分らしい。

そしてたくさんの絵馬が。

なんか全体的に絵のレベル高くね…?
こんな副島さんの絵を再現できる素人がいるのか…?と思っていたら、スタッフの方々が描かれた絵馬だったようです。

おそらく副島さんですよね…さらっと描いた絵も上手い、字もお綺麗です。眼福眼福。

金子さんと土居さんは…見つけられない。おふたりが、絵馬を書かれたのは不明ですが、個人的にライドウ描いてる人が金子さんなんだと思うのだけど…作者なら新規カットを描くサービスをしてしまうのでは、と勘繰ってしまい、確信を得られない。

そして隣には一般信者の方々のための縦長の絵馬がぎっしりと埋め尽くされていました。

二日目の午後だったためか、絵馬は買えず…書きたかった。

とりあえずこれからもアトラスにお布施しまくって、この無念を晴らしたいと思います。

その奥には、悪魔たちのフィギュアの展示があり、マーラ様はその中でも異彩を放っておられました。

ご立派でございます。猛々しくも背徳的なお姿。神格は高いのですが、御本尊として据えられないのは見て分かる通りの理由。悪魔崇拝の男根信仰というカオスの極致。

そして、女神転生シリーズのパッケージ原画の数々が展示されておひました。真1のパッケージがびっくりするぐらい描き込まれておりました。真2に至ってはもはや宗教画です。

もちろん、真3のポスターもありました。画風はガラッと変わりましたが、厳かな雰囲気は変わらず。

その後はペルソナ5を中心とした展示が。画集も拝受しているのですが、やはり原寸大だと迫力が違いました。

あと、DJブースが設置されていました。時間が合わず全く見られず…ここで祭祀がとりおこなわれていたようですね。

混雑を抜けて出口へ。名残惜しいですが、参拝できただけでも満足でした。

そして、出口付近に貼られていた大きな紙が。

これからのアトラスがどこに向かう方向の希望を色で示してほしい、とのこと。色は黄・紫・赤・緑・ピンクの五色。

私は「闇・妖・カオス ロックでクール」であってほしいと紫で判を押しました。パッと見た印象では、紫が多かったですが、様々な色が折り重なり、アトラスが多様な層に支えられていることが受け取れました。

アトラスのさらなる飛躍を期待しています。


じるる

「凶悪」感想/罪悪感の在り処

こんばんは。

コカインの摂取で逮捕されたことで、今話題の電気グループのピエール瀧さん。彼が、元暴力団員の殺人犯としての役を演じた映画「凶悪」を視聴しました。

逮捕されたからって見たわけではなくて、実際の凶悪事件を題材にした作品ということで、前々から興味があったので見ました。ほんとです。

エグい映画が見たいんじゃーっ時に、チェックしておいて、見よう見ようと思って今更見ることになりました。

感想としては、ええエグさでした。

リリーフランキーピエール瀧の悪人っぷりが素晴らしい。ほんとに演技か?と思えるほど。あと悪人といえど、キャラクターの違いも面白かったです。

そして、この映画からは罪悪感とはどこから生まれるものなのか、という問いかけが受け取れました。

とりあえず、あらすじ。当然のごとくネタバレだらけなので、ご注意ください。

リリフランキー演じる不動産のブローカーの木村孝雄は、借金を踏み倒した男性を絞殺してしまいます。そこで知り合いの元暴力団員の男、須藤順次に死体の始末への協力を求めます。これがもとで、二人は大金を得ることになり、お互いの協力のもと、土地を持つ高齢者をターゲットにした殺人を企てます。何件かの殺人を犯した後、須藤は、別件で逮捕。裁判で死刑を言い渡されます。そして須藤は、木村が堂々とシャバの空気を吸ってるのが許せねェって理由で、まぁ、他に色々と訳があるんですが、木村を逮捕できるよう、記事にしてもらうよう出版社にかけあいます。その依頼を受けた記者が、山田孝之演じる本作の主人公、藤井修一です。

この物語には二つの軸があります。一つは、この一連の犯罪の経緯と次第をなぞったミステリ要素、もう一つは主人公の藤井の周りの人間ドラマです。後者の基軸が大きいかな。

藤井は妻と彼の母親と三人で暮らしています。母親は認知症で、妻にその面倒は任せっきり、介護に耐えかねた妻は彼女を老人ホームに入れるよう、藤井に頼みます。仕事を理由にその問題から逃げ続ける藤井、そんな彼の物語と事件とか交錯していきます。

この映画のなかで、一番印象的だったのが、彼女の言葉。
「シュウちゃんはさ、お母さんをホームに入れて、罪悪感を感じるのが嫌なんでしょ」
これがまさに映画のテーマを表した台詞ともいえます。
母親を老人ホームに入れることが、母親に対する罪だと感じてしまう。その罪悪感から逃れようと仕事に没頭し、現実から目を背けます。その罪悪感が生まれることを恐れる、それがどんな人間にも起こりうることではないか、と。

そして木村と須藤。

劇中の木村と須藤は、良心の呵責が一切ない極悪非道の人間に見えます。まるで、善良な自分たちとは全く異なる存在。対岸の火事のように感じています。ただ、老人を虐待し死に至らしめる彼らと、老いていく母を見ずに過ごす主人公には本質的に共通した問題をかかえるのではないでしょうか。

彼らの共通点、それは結局は老人をどうでもいい存在として捉えていること。木村と須藤にとっては金儲けの道具、藤井とその妻にとっては重荷。いや、藤井に関しては一応母を思う心があるのですが、妻にとっては全くの他人。認知症の義理の母親に、ご飯を作っても感謝をされず、言うことはすぐに忘れる、時には誹謗を受け、はたかれる。そんな存在が「死んでもいい」、むしろ「早く死んで欲しい」と思ってしまうようになってしまうのは、悲しいことですが、無理もないです。その時点で、事件で殺された老人とその家族と藤井の家族が何ら変わりはない人間であるといえます。そしてその苦しむ妻を見て、何も行動しようとしない藤井の配慮のなさは、木村たちが自分と関係のない老人が死んだところで、哀れみを全く感じていない部分と重なります。

むしろ正義感の強い人間であると自分を捉えている藤井の在り方の方が厄介です。完全に自分とは違った下卑た犯罪者として彼らを見ている。結局は自分と似たような類の人間であることを認めたくない。どこまでも卑劣な犯罪者であることへの確証を得るため、自分とは異質な人間であることを証明するため、泥沼の中にもがきながら、真実を追い求める。結局は死んだ人間たちのためときう正義感というのは建前で、自分のために取材を続ける姿が悲しくある意味で、滑稽です。犯罪者とは向き合うのに、自分の問題とは向き合わない主人公の姿が浮き彫りにされていきます。

最後に面会室で木村と対面するシーンがあります。そして木村は藤井に対して言葉を投げかけます。

「一番私を殺したいと願っているのは、被害者でも、おそらく須藤でもない」

と言い放ったのち、主人公に向かってコンコンと指さします。

このシーンはなかなかゾクッとしました。

彼らが死刑となることで、自分の行ったことが正義であることを認められたい。自分は罪を犯す人間ではないことに確証を得たい。そこをさらっと指摘された場面でもありました。

最終的には、主人公は、母親をホームに預けることになります。やはり彼には家族を見捨てるような人間ではないという考えがあったと思います。その逃げ続けた部分に一応の決着がついて感慨深いものがありました。

木村には罪悪感というものが生まれてはいませんでしたが、須藤には生まれていたようです。須藤はクリスチャンになることで心の中の整理がついてしまった。救われてしまった。被害者は救われることなく死んでいったのにもかかわらずです。そこがいい感じに胸糞悪くてグッド。どっちも結局は死刑にならずに後味悪い感じがええですねぇ。

まぁバッドエンドが趣味な訳ではないんですが、こういう犯罪者にスポットを当てた話では、胸糞悪さを求めてしまいます。いや、明るい話ですよ!って前評判でこれやられたらショックですが。まぁ、こういう凶悪犯罪題材にしました!って映画では良いオチだったのではないかと。

スクープ雑誌の記者が正義感かざしたところで、滑稽なのは当然よな、っていうメタな視点は置いといて。

まぁ期待してたのはもっと犯罪メインのエグーい感じでした。まぁこれはこれであり。エグいシーンは最初のオープニングでだいたいやってましたね。あそこは惹きつけられるし、引くね。

この映画とピエール瀧さんのコカイン所持っていう犯罪を繋げるのはなかなか安易な気がするけど、より役の説得力が増したのでは。まぁ、不本意だろーけど。

ただ、nhk大河「いだてん」に迷惑をかけたことは許せんぞ。ただでさえ視聴率低いんやぞ。おもろいのに、おもろいのに…

さておき、リリーさんもアウトローな役が似合っていましたね。『東京タワー』を読んだ時に、近い関係の人間にサラッとヤーさんが出てきてビビりましたが。周りがそういう環境だったからこそできた演技…なのか?しかし多彩だな、あのおっさん。

まぁ、アウトローな役にピエール瀧さんとリリーフランキーさんをキャスティングしたのほんと有能ですね。

あと山田孝之さん。真面目な雑誌記者役がよく似合っていましたね。このキャスティングもグッド。静かな怒りの表現がよかったです。

というか山田孝之さんって実力も経歴もあるから大河ドラマの主演張ってもいい気がするんですが、何か候補に挙がらないですよね。そもそも私が見る限りではNHKに出てた記憶がない。なんか確執があんのかァ?とりあえず私は山田孝之主演の大河が見たい。という希望。


じるる

三島由紀夫『岬にての物語』感想/詩情と美と死

こんばんは。

人生で一番三島由紀夫に触れております。これが何のためになるのかはよくわかりませんが、とりあえず語彙は増えてく増えてく…気がしている。

今回は『岬にての物語』の感想。

『岬にての物語』は、私が読んだ媒体、全集だと、15ページ程度の短編です。私の印象では、小説というより散文詩に近く感じました。

というのも、言葉選びが美麗な三島作品の中でも、詩的表現がふんだんに使われているからです。詩趣横溢しまくってる。ただ、淡い夢の中を漂っているような感覚。

一応、あらすじ。主人公は、11歳の幼い私。そして、母と、書生のオコタン。彼らは岬の海辺へと遊びに行き、「私」はオコタンと過ごします。しかし彼らのそばを離れ、迷子になります。その先で青年と少女に出会い、彼らとふれあいます。その後、聞こえる悲鳴。「私」は彼らが死んだことを知ります。その光景を心に焼き付け、「私」は、無事にオコタンと母の元へと戻ります。少年の秘密の体験は彼を少し成長させます。

こんな感じかな?

とりあえずこの作品、豊かな語彙がこれでもか!とふんだんに使われています。

というわけで、とりあえずいくつか抜き出してみます。が、副詞?と接続詞のみです。何のためかというと、後学のために、語彙を増やすために。まぁ逆に言えば、そんなことも知らんのかい、ってことだけど。

(之は尤[もっと]もアラジンの不思議なラムプやシンドバッドの航海などによってでなく、シャーリヤル帝妃の不埒をえがいた近東風の一場面や黒島の王の物語の憂鬱な美によって少年を魅したのであるが)

私は夙[つと]に、彼らが考えるのと別種の飛翔を飛翔していた。

就中(なかんずく)相手の話を取って了い自分の話をとられぬためにひっきりなしに用いるあの感嘆詞ーーあの、まあねえ、へーえ、ははあ、ふん、ええええ、おや等々ーーを。

彼女に当然随伴しているたくさんのお菓子や果物類の魅惑にも不拘[かかわらず]、築きかけの城塞の方へより多く私の気持が惹かれるのも理だった。

剰[あまつさ]えオルガンの音には低吟する秋の蝶のような歌声が混じっていた。

加之[しかのみならず]、しじゅう幼年を脅かしている年齢の圧力が感ぜられず、私も諸共に何か年齢をこえた永遠のもの、不老不死と謂った力によって包まれているように感ぜられた。

軈[やが]て彼女が言った。


美麗な日本語をこれでもか!と使う三島由紀夫ですが、ここまでに漢字表記なのには、情景が一歩間違えば単純なものになってしまうからじゃあないのかな、と。ストーリーとしては単純、だからこそ言葉で着飾りまくり、修飾に修飾を重ねまくっている。そのうえで、幼い頃の気持ちを率直に描いてる。そこがいい。

にしても、このお話も三島の幼少期の体験からきているんですかねぇ。なかなかのお坊っちゃんだったことがひしひしと伝わってきます。

あと物語の情景について、おそらく三島の個人的体験にすぎないのだろうけど、人がどこかで経験したことがあるもののように感じます。感情の名前が分からずとも、その光景の美しさや情緒がずっと記憶の底に残り、漂い続けている。まぁ、主人公の年齢からして、感情の名前が分からないってことはないとは思いますが。読んでる時は勝手に5歳くらいだと思ってました。うん。読解力貧困が招いた悲劇ですね。

さて、それは置いといて、私にもそんな情緒に富んだ美しい記憶があります。あんまり綺麗すぎるので、何十年と繰り返し思い出しているうちに勝手に脚色された部分があるような気がする記憶。こういう幼い頃の詩的な世界の体験は、情緒を育むうえで、やっぱ大切なものだと最近思ってみたり。

それと、情緒を持っているか持っていないか、それが人間であるか人間でないかの線引きになのではないかと。まぁ人工知能と人間を分けるものはやっぱり今後の人類のテーマになっていくとは思うのですが、人工知能に思い出があるのか、情緒があるのか、詩情があるのか、…みたいな。

まぁ、そのうち感受性の高いAIが生み出されるかもしれんけど。そうすると、人の感情を数値化できるってことなるのかな。そんで詩とか書くのか。それはそれで楽しみ。絵を描く奴もいるらしいからなー。詩もそのうち書き始めるんではなかろうか。

…それはさておき、過去の記事で、三島由紀夫の『詩を書く少年』の感想を書きましたが、その感性の世界の源がこの作品にあるように感じられました。彼が言葉を得るよりも、前の直感だけの世界。ほとんど偏りのない率直な世界。詩を書く「少年」のような傲慢さも、小説家らしい計算や狡猾さもない、純粋な世界。死に対する悲しさと美しさを含んだ混じり気のない世界。そんな世界の美しさがこの作品からは受け取れます。

まあ詩を書く「少年」が書きそうな話ではあるけれども、書けない話でもある。この作品はかなり個人的な体験が主体となっており、想像を主体として書く少年とはだいぶ違っています。
それでも、原初の体験として「詩を書く少年」の中にあるような情景とも思えます。

こう見ていくと、三島由紀夫の体験が描かれたものと、経験していないものを描いた作品で何となしに分かれてるんだな、と。『詩を書く少年』『煙草』、『岬にての物語』などは前者、『沈める滝』、『青の時代』などは後者かな。

いやー、三島感覚がついてきたように思います。が、まだまだ。どんどん読みます。

まぁ、まとめとして『岬にての物語』は、烏滸がましいかですが、『詩を書く少年』と同じく、過去の自分とだいぶ重なる部分がありました。主人公の少年が夢想癖なところや、海辺での体験。幼い頃に触れた死。ほかもろもろ。

その体験を表現できるかできないか、人に伝えられるか伝えられないか、そこが一般人と小説家というか表現者としての境界線になっているのだなぁ、と。ええなぁ。

結構すき。

おわり。



あと、蛇足。蛇足文。

振り返りとして色々書いときます。

年始のころ、ブログ毎日書くと意気込みましたが、なかなか難しい。原因は遅筆。まさに遅筆、遅筆も遅筆。
書きたいことはあるのに上手くまとまらない。初稿がぐちゃぐちゃすぎる。とりあえず思ったことをぽいっと書いてって、体裁を後から整えていくスタイルなので、推敲作業ばっかです。しかも、推敲してても元がアレなので、ぐちゃぐちゃなままなこともある始末。
最初の段階だと文字数多いので、削って削ってこんな感じ。一応3000字には収めたい…文章上手くなりたいけれども、なかなか難しい。三島由紀夫を読んでいると、やはり書き物も才能がでかいのが分かる。それでも、まぁ上手くなれるよう、地道に地道に…
あと、書きたいものがたまっているので、早めに書けるようにも努力。早く書いとかないと、その作品に触れた時の感動がどんどん色褪せていく。

それと、感想書いてて思うのが、いつも作品の表面部分しか触れられていなかったのだな、ということ。初読では、内容をさらってるだけなので、感想書いてからもう一度読み直すと、印象や話の理解度がだいぶ違う。

このブログを書くことが作品理解に向けて役立ってる部分はそこかなー。


じるる

fgo1.5部亜種特異点『禁忌降臨庭園セイレム』感想/アビーとセイレムとサンソンの目的について考えてみる

こんばんは。

fgo1.5部亜種特異点『禁忌降臨庭園セイレム』クリアしました。

雰囲気とかキャラクターとか舞台設定はいつも通り素晴らしい。ストーリー自体の終盤の終盤を除いては好みです、が、様々な場所で言われているとおり、拍子抜け。

伏線とか投げっぱなしすぎるし、説明不足な箇所が多すぎる。現場のごったごった感が伺えますね…

クトゥルフとかセイレムについての説明がほぼなく、ネタをブッ込んでくるのは如何なものかと。マシュに予備知識をちょっと言わせるとかしてほしかったなー。

さて、そんなセイレムで放りだされた謎のいくつかを自分なりに考えてみよう、というのが今回の試みです。
なんとか整合性を取れるよう勝手に妄想をします。

アビゲイルの存在について

まずアビゲイル・ウィリアムズ。

史実ではセイレム魔女裁判という事件の中心に位置する人物です。詳しくはwiki等で。

マシュはセイレムの資料を読み込んでおり、当時の名簿にある住民の情報が食い違っていると気がつくほどでした。

ただ、事件の渦中にあったアビゲイルについては何も言及していません。史実においては彼女の言動、告発によって多くの人の運命を狂わせていたにもかかわらず、です。

あれだけセイレムについて知り尽くしていたマシュが、なぜ見落としていたのか?

これには、

fgoの人類史では、アビゲイルがセイレムに関わらない、もしくは中心人物にはならない

②セイレムによって認識が歪められている

という可能性があるかと。

これは、②の理由だと考えてます。それは、アビゲイル何故罰を求めているかに起因します。

終盤でアビーの犯した罪が、魔神柱ラウムによって次々に告発されていきます。これを見るに、アビーは特異点のセイレムで犯した罪を悔いているようです。しかし、実際は、歴史上のセイレムで自分が犯した罪を悔いているとは考えられないでしょうか。

多くの混乱を招き、命を奪ったにもかかわらず、彼女の信ずる神から何の罰も与えられなかった。
彼女は信仰に篤い敬虔な清教徒であることは、作中で何度も描写されています。

「一片の罪を持たない人間がいるのですか…?」

「これは私が受けるべき罰なのだから。あなたが傷つかなくていい。」
「芝居の小道具と違って、人の投げる小石は痛いでしょう…。」


救世主なた。

また、ラウムの言葉。

アビゲイルの信仰の篤さはセイレムを光の綾絹で覆った」
「然ればこそーー呵責がない。善にも悪にも一切の隔てがない。」
「ゆえに罪人たちは罰されず、赦されることもなく、煉獄に留まることになった。」

この台詞から、セイレムの住人もアビー自身も敬虔な信仰を捧げながらも、罰も赦しも得られないセイレムに囚われた罪人であることが伺えます。

そんなセイレムに囚われ続けるアビーを救おうとしたのが、ラウムさん。彼女の信仰する神を異星の神に替え、彼女に接続させ、彼女をその呪縛から解こうとした。外なる神からの罰を与え、罪から解放させようとした。っていう妄想です。

サンソンの目的

そしてサンソンさん。

今回、不可解な行動が多く、劇中の登場人物もプレイヤーも困惑させまくった彼ですが、その行動は一本の線で繋がるでしょうか。

まずは、あっさり処刑された意味について。

これは理由がたぶん2つあって、1つはアビゲイルを魔女として裁くため、もう一つは自身の贖罪のため、だと思われます。

先ほど述べた通り、セイレムは中世のキリスト教世界が色濃く残っています。

ここで注目したいのが、マシュたちがセイレムに滞在する日数が1日目、2日目と章の冒頭で表記されること。これを追っていくと、主人公とサーヴァント一座の滞在したのは8日目までです。サンソンが処刑されたのは7日目。アビーが魔女として法廷に立ったのが8日目

つまりカルデア一座の過ごした最初の7日は、神の天地創造を模しています。

…はい。一応クソ有名な天地創造の内容をざっくり言うと、1日目から6日目に神さまが世界の色んなものを作りました。7日目は疲れたので休みました。
って話。

仮にセイレムでも一週間単位で時間が一周してたものとします。また、ぐだたちがセイレムに来てから再度時が一から刻み始めたものとします。まだ神が存在し、信仰のあったセイレムが7日目まで、8日目からは神のいない、信仰のないセイレムになります。そのセイレムを作り上げたかったのがラウム

7日目の夜に「時は満ちた」という発言はそのため。
それまでは7日目で終わったところをやっと条件が揃って8日目を迎えることができた。
その条件とは7日目以降に

①裁判が続くこと

②アビーが魔女として告発されること

だったのではないかと。サンソンは裁判劇を続けるため、自ら断頭台に立ったではないでしょうか。

そしてもう一つの理由、それが贖罪のためです。もしかしたらセイレム自体のテーマが「贖罪」なのかもしれません。

セイレムに招かれたのは自身の罪を想起させ、贖罪のためなのかと考えました。というわけで、セイレムに招かれたサーヴァントたちを改めて見ていきます。

まずサンソン、彼はそもそも贖罪したいマンなので、説明不要。

マタ・ハリ、彼女は裁判劇の中で、彼女のスパイとしての罪の意識を想起させる場面がありました。

キルケー、彼女はメディアとして招かれます。型月版メディアは、殺人について罪の意識があります。呪いをかけられたとはいえ、弟を殺し、国を裏切り、王を殺してしまった。メディアとしての罪の意識がセイレムへと招いたのではないでしょうか。

ただ、ロビンと哪吒は普通でしたね…彼らには贖罪というキーワードからは離れているように思えます。

この例外から察するに、裁判劇に加わった時点で、罪の意識が想起されるのかもしれません。こうしてみると、マタ・ハリ、サンソン、メディア、罪の意識があったものだけ、想起されたものだけが、法廷に立たされています。

つまり、セイレムとは、神に見放された人々が自身の罪と罰に向き合うドフトエフスキー的主題をもった物語だったんだよ!

…穴ぼこだらけの理論だあ…

ただ、この仮説から生じる疑問としては何故ぐだが法廷に立ったのか。これまでの説でいくと、ぐだに何かしらの罪の意識が想起されているはずです。では、ぐだの抱いていた罪は一体どういうものだったのか。

ということで妄想終わり。

あとカルデアに戻ったサンソンたちがクロックマダムを食べてた理由について。

たぶんあれはセイレムの飯がよほどまずかったのではないかと。セイレムだと受肉してたので、サーヴァントともいえど食べなきゃいけない状況だったしね。

というかメディアと一緒に食べるならキュケオーンを出すというか、キュケオーンらしきものを作ってみたら良かったんじゃないかな。そこで、メディアが懐かしさを覚えてほろっときたり、そこからロビンがセイレムでの苦労話始めたり。で、そっと話を聞いていたキルケーがくすっと笑って終わり。みたいな!

で、蛇足妄想終わりです。


じるる

三島由紀夫『詩を書く少年 』感想

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

三島由紀夫集の何編かを読み終えました。今回はその中で『詩を書く少年』の感想を。

三島由紀夫については、不勉強な部分が目立つかとは思いますが、ご容赦ください。

あらすじ

タイトルのとおり、詩を書く天才少年が主人公のお話。彼が天才であることを周りも認め、彼自身もそのことに確信を持っています。彼の考えるの天才とは、夭逝した人物であり、そんな天才に憧れを抱きます。周りの人間のレベルの低さに辟易しながらも、似た感性を持った文芸部の先輩Rと交流を持つことに。Rとの詩を語る時間に楽しさを覚えますが、Rは誰かとの恋に落ちます。主人公の少年は、恋を知った先輩がどんどん凡庸な人間になっていくのを感じ、いつしか自分も天才ではなく凡庸な人間になっていく可能性を見ます。

この作品はまさに三島由紀夫自身を描いたものとされています。多少の肉付けは違えど、三島自身の体験や心情がそのまま主人公に与えられており、作中の主人公の言葉からも三島そのものを感じさせます。

言葉さえ美しければ良いのだ

この言葉の清々しいほどの傲慢さ。いいですねぇ。

この作品からは、恋愛への嫌悪、天才の夭逝への憧れ、そして、少年の頃の芸術家への夢想が伺え、ここらへんを読み解いてみたいと。

恋愛への嫌悪感

まずは恋愛への嫌悪について。恋愛という感情が魅力的な人間をただ凡庸な人間に変えていくことへの失望は、他作品からも伺えます。何編かしか読んではいないのですが、その考えが垣間見える部分がいくつかあったので、抜粋。

昇は去年の顕子の不感不動に、あれほど独創的なものがあったからには、彼女の体に蘇った歓喜は、顕子をもう一度独創的な女に、昇の見たこともない新しい種類の女に、ほとんど崇高で悲劇的な女に、生れ変わらせるだろうと想像していた。しかるに歓喜を知った女は、かけがえのない男に対する女の屈従の見本となり、昇の知ったどの女よりも凡庸な女になり、忽ちそこに腰を落ちつけ、生れ落ちたときからそこに居るような顔をしているのだった。

『沈める滝』より

こうして入ってきた耀子を見ると、誠はゆえもしれぬ感動にとらわれ、この部屋にしばらく居てくれるようにと頼んだ。その語調には、気のゆるみから生じた懇願の調子がうかがわれたので、耀子は半ば目を伏せて座った。
誠は今ほどこの無垢な女を愛している瞬間はないように感じたが、今に限って彼はこの種の感情をゆるしておきたくないと思った。

僕は自分が陥った凡庸な不幸を何とか非凡なものに作り変えたかった。そこで僕がやったことは、彼女を口説いて屈服させることだ。

『青の時代』より

ここらを読んで、三島が抱いているのは、女性への失望だと受け取っていたのですが、恋、それをすること自体が人を凡俗に貶めるということへの失望なのかもしれません。それは、同性であるRに対する失望から性別を隔てたものでないこと、そしてそれが自他を問わないことが分かります。

天才の夭逝への憧れ

そして、少年の天才の夭逝に憧れる姿も描かれています。
確かに、様々な分野、文学・絵画・音楽とかに夭逝の天才って多いよなぁ。

むかーしbuzzかロキノンで早死にしたロックスター特集みたいなのがあって、その数の多さに驚いた記憶があります。たいてい27歳前後でオーヴァードーズ・事故死・自殺などが死因を占めます。これを読んだ若かりし私は、27歳で死ぬ人生かっこええ!と、憧れを抱いたりしていました。

若いうちに功績を残し、そして死ぬ、という劇的な人生は人々の記憶に残りやすいのでしょう。

主人公の少年も、儚く人生を終わらせる天才たちを見て、憧れ、それが天才の条件だと捉えました。

また、少年はゲーテは長生きした、というよりかは単純な理由から、ゲーテは天才ではないと嫌います。しかし、ゲーテは結局天才で、創作することによって死を免れたという結論に至ります。

芸術家への夢想

そして、三島の今まで触れた作品の中には、芸術家の狡猾さを理解していない、といった類のぼやきがでてきます。
また引用します。

良人は或る小説家の大家に傾倒していて、昇にしきりに同意を求めたが、昇の目から見ても、この男は作家たるには、芸術に対して、切手蒐集家のような幸福な夢を見すぎていた。

『沈める滝』より

誠はまだ芽吹こうとしない街路樹の梢に目をやって、ふとした気の迷いで、自分はともすると空を見る癖がある、いっそ詩人になればよかったのだ、と考えたりするが、芸術家が必要とする真の狡智を知ったら、彼もまたこの職業を唾棄すべきものと思ったであろう。

『青の時代』より


そして、『詩を書く少年』。
『詩を書く少年』の主人公は、ただ己の感性のみで詩を表現し、芸術家の姿を夢想しています。

芸術と芸術家をごっちゃにする幻想、世間の甘い少女の目が芸術家というものにむけるこんな幻想に、彼自身がしっかりととらわれていた。自分という存在の分析や研究には興味がなかったが、いつも自分で自分を夢見た。彼自身が、あの少女の裸が造花に変貌するような変幻きわまりない比喩的な世界に属していた。

『詩を書く少年』より

私たちの想像する芸術家の姿とは、やはり感性のみで生きる人間です。しかし、現実はそうではない。三島の作品では、具体的には述べてはいませんが、芸術といっても、本質は商売です。芸術家なら芸術家なりの営業能力であったり、自己演出力などもろもろが求められます。人々が何を求め、何を感じ、自分と自分の作品をどう売るのか、それらが試されていく。三島はそれを身を以て体験したはずです。『詩を書く少年』の芸術家への夢想が現実となり、そして裏切られ、三島由紀夫になっていったのだと思いました。



じるる

fgo 『亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負』感想/擬似サーヴァントの情報整理

こんばんは。
ご高閲いただきありがとうございます。

『亜種並行世界 屍山血河舞台 下総国 英霊剣豪七番勝負』クリアしました!
面白かったー!

江戸時代に軽くタイムスリップした感覚があり、没入感高くてグッド。

英霊剣豪七番勝負の骸骨の山をバックに筆字といった演出も格好よかった!

武蔵ちゃんを毎回編成しないといけないのは、苦労しました。敵も強いし、追加効果エグいし、HPゲージ3本が当たり前だし。まぁ、結局令呪でごり押しですわぁ。

とにかくエンタメに振り切ってたのが良かったです。単純に面白いってのはええですね。

武蔵ちゃんのキャラクターも良かったです。戦いだけを求めて世界を流浪する。それだけでもうカッコいい。
あとよくわからない丁寧語の喋り方が好きです。「〜なのです!」「〜しましょう!」みたいな。お姉さん感溢るる。

配信当初はパクり問題で揺れていたそうですが、勉強不足で山田風太郎著『魔界転生』を読んだことがないので、どこがどうとかは指摘はできない。まぁでも面白かったので、元ネタ?の方も読んでみたいと思います。

話の筋もテーマもキャラクターも被ってたらアウトですけど、fgoの方はfgoらしい肉付けがされていたので、好意的にみてます。

たしかに若干の違和感といえば、序盤のぐだの行動で、村人が惨殺されているのを忍んで眺めているシーンかな。今までのぐだだったら、理屈では分かっていても止めにいく気がするんだけどな…

とりあえず、英霊剣豪の感想をネタバレを含みながら綴っていきます。以下からご注意ください。


佐々木小次郎について

なんか立ち絵が武内さんの絵になってる!それはともかく、人々のイメージによって作り上げられたのが下総国の小次郎なんだよな。

また、英霊シナリオは武蔵と小次郎が出会うための物語だったんだなと終盤で感じました。小次郎という幻を追う武蔵とその幻の具現たる小次郎。fgoの人類史では出会うはずのない二人が相対し、決着をつける。まさに運命との対決です。こういうアツいのいいね!たまらんねー。
そのおかげで、その世界を生きた武蔵とも対面することができた。もはや戦うことに意味などなく、対峙することで武蔵の念願は果たされていくことになります。よかったねぇ…

そして武蔵ちゃんの流浪の旅は決して元の世界に戻れぬものと知ります。剪定事象の世界を彷徨い、元いた世界は消えている。その事実を受け止め、零の境地に至る…そしてまた果てなき放浪の旅へ…ええよーええよー。

気になったのは小次郎との対決での空間。ぐだが武蔵の名を読んだことで、決着がつく描写でした。

なんか量子力学的なアレなの…?観測者が存在することによって事象が存在するみたいな…。ド文系なので、ここに突っ込んでくとバカが露呈しますが、そういう可能性もあるんだろうな、と。SFな方向に行くのかしら。
ぐだの観測した範囲でしか事象が存在しないって話になったらそれはそれで面白そうではある。ほんとにただの人間なんですかね…私はぐだが人類悪説を推すぞ。

擬似サーヴァントについて

今回は千子村正が、衛宮士郎の人格を借りてサーヴァントとして現界していました。擬似サーヴァントとして限界する条件は、①霊基が強すぎる②霊基が弱すぎる③英霊本人が現界に乗り気でない、っていう3つのパターンに分かれると解釈しています。
まとめてみると、

①のパターン:シトナイ、イシュタル、パールヴァティ
②のパターン: 村正
③のパターン:孔明ラスプーチン

って感じですかね。

村正は霊基が弱すぎるから、士郎を呼んでサーヴァントとして成立している。

擬似サーヴァントやらデミサーヴァントやら受肉したサーヴァントやらごちゃごちゃしてきますね。
とりあえず、擬似サーヴァントが現代の人間の人格を借りたサーヴァント、デミサーヴァントが人間の体に英霊の力が宿った状態。それで永続的な戦力としてマリスビリーが考えていたのがデミサーヴァント。このデミサーヴァントの研究と、ソロモンが受肉を願ったのとどっかで繋がってんじゃないかと私は思ってます。何の願いもなかったソロモンがいきなり受肉を願ったのに違和感。マリスビリーは何でグランドサーヴァントを召喚できたかについても疑問。それらは明かされる日は来るのか!わからん!

fgo第2部への布石

話を戻して英霊剣豪、第2部への数々の布石も置いていました。


ここで「宙より空想の根が落ちる」っていってるんですね。こういう一見ただの比喩表現に見える描写が、意外と設定に関わってくる言葉だったりするのが、面白いです。また、この言葉からやっぱり下総屍決舞台は、特異点というより異聞帯といった方がいいのでしょう。

そしてこの武蔵ちゃんの言葉も気になりますね。ここもマリスビリーの思惑が何かあるのでしょうか。

あと布石としては、キャスター・リンボや、サタンって何ぞやってこととか。

まとめてみると、異聞帯という人類史のifの世界が存在する、ということを伝えるための章でもあったのかな。いきなり2部始めた人間にとってはついていけなかったからなぁ。やっぱり2部への足がかりとして、1.5部はやった方がええな。
こう考えてくと新宿がホームズの加入、下総が異聞帯の存在の可能性の示唆のための章だといえます。ん…?じゃあアガルタは…?アガルタは何だったんや…神秘の秘匿が侵された時にどうなるか、ということを伝えたかったのかな…?見落としているだけで、きっとどこかに二部に繋がる要素があったのかもしれません。

で話は変わって、石が30個勝手に消えてる事件が我がカルデアでありました。メルトリリスのために貯めといたはずなのに…これは乗っ取られたか?と思い、ブログ内の自分のサーヴァントの情報のわかるスクショは消しました。まぁ寝ぼけて回してたかもしれませんが、一応自衛で。まぁ育成サボってる無課金のアカウントなんざほぼ価値なんてないんですけどね…
勝手になくなった石でひいたガチャの結果を鑑みるに大爆死…なんか星3の礼装が増えてると思った。

まぁぼちぼちがんばりたいと思います。


じるる